満州国

満州は日本が外国と渡り合うための、重要な土地であり、同時に帝国主義の象徴でもあった

(2012年03月31日更新)

  • 満州国と言えば「赤い夕日の満洲」という言葉が思いつく。 満洲に行った人が口を揃えて褒め称えたのが景色を描写したこの文言は、満州に行ったこともない日本の内地の人々の心に深く刻まれ、満州への憧れを募らせたのかもしれない。 1936年、広田内閣は「満州開拓移民推進計画」を決議し、500万もの日本人の移住を計画していたのだから、国家を上げての印象操作も大いにあったに違いない。 満州への思いは大人のみならず、満州鉄道の超特急亜細亜号は子供たちの憧れで、満洲は夢の大地であったようだ。 しかし、満州とはいかなる土地で、日本人にとってどういう意味があったのだろうか? かつての満州帝国の大きさは、今の中国で言うところの中国東北地方の三省、遼寧省と吉林省、黒龍江省に、内蒙古自治区の東部と河北省の東北部を加えた部分になる。 しかし、この満州という名前は、そもそも土地を表す言葉ではない。 満洲は元々は清を建国した女直人を指す言葉で、言ってみれば民族の呼び名である。 この満州という名称を土地の名称として扱ったのは、実は江戸期の日本だった。 19世紀はじめに作られた「日本辺界略図」では、アムール川(黒龍江)を挟んだ清側の領土を満州と表記しており、この名称がもとになり、ヨーロッパでも「マンチュリア」と読んでいたようだ。 清朝時代の満洲は軍政下にある特別行政区域として満州人の3人の将軍が収める地だった。 やがてロシアが19世紀の終わり頃から、東清鉄道を敷設し始めると、それを不服とした地元民による反対運動がやがて義和団運動という排外運動になっていく。 ロシアはそれを鎮圧することを名目に、武力制圧を行い、満州の軍事占有を強めていく。 ロシアの驚異に対し、満州は無政府状態に陥り、日露戦争で日本がロシアに勝利したことで、ようやく軍政が放棄され、今で言う東北3省が発足する。 歴史にもしもはないが、もしも日本が負けていたら、満洲はロシアに蹂躙されていただろう。 日本は日露戦争の講和条約により、ロシアがもっていた遼東半島の租借権を当時の王朝である清王朝から借り受ける。 この土地を日本の軍部は「関東州」と呼び、関東総督府を置き、占領地としての軍政を敷く為に軍隊を常駐させる。 これが英米清の不信を買い、韓国総監だった初代総理大臣伊藤博文の説得もあり、一度は撤兵させ、総督府は都督府と変わり、満州鉄道会社が運営する民政へと変わっていった。 民政へと変わった都督府は、総督が関東州のすべての権限を有していたのに対し、都督は軍政や政務をそれぞれ日本の陸軍大臣または外務大臣に監督される立場にあるのだが、初代都督には、総督だった大島義昌大将が就き、その後も軍部の大将・中将クラスがその任に就いた。 軍部の意向が通るような人事ではあったわけである。 都督は主に満州の軍事、鉄道の付属地警備、関東州の民政などを監督する立場にあった。 関東都督府は陸軍部と民政部に分かれ、それぞれを管理監督し、行政の教育・建設・医療などの面は、満州鉄道株式会社(満鉄)が一任された。 満洲は、都督府(軍部)と領事館(外務省)、そして満鉄によって運営されることになる。 しかし、管轄する役所が多いと、色々な権益争いが起こり、結局行政の一元化を図る動きが出始め、一時は都督府指揮下に領事や満鉄を置くというようなこともあったが、大正の国民の民主主義化により、結局都督府陸軍部が関東軍と、国内の内閣総理大臣監督下の政治を行う関東庁に分かれることになる。 満州は最初は軍部による武力制圧を目論んでいたのだが、良識のある元勲たちによって、必ずしも武力で占領下にする訳ではなく、軍部を抑え、民政の組織として運用されていた。 それは当時の政府がまだ外国、特に中国との関係を重視したからであり、所謂大東亜戦争の引き金となった、満州事変に至るまでに、軍政と民政の狭間で揺れていたのである。 満州は日本にとって、ただの租借地ではない。 満州は日本が外国と渡り合うための、重要な土地であり、同時に帝国主義の象徴でもあった。 その重要な満州における舵取りで日本は大きな失態を繰り返し、やがてそれが泥沼の日中戦争を引き起こす、あの満州事変に繋がって行く。 出典・資料 Wikipedia 「辛亥革命」「孫文」「満州」 半藤一利「昭和史」 宮脇淳子「世界のなかの満州帝国」
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