村上ショージ  ジュークボックス

音楽についてのオシャレな行為

(2012年8月3日更新)

  • 国道沿いの車の往来の激しい、道路沿いに1件のバーがある。 所謂飲み屋街から外れて、周りは洋食屋やアパレル関係の店が多く、夜になると、周りの店は閉まっているが、このバーは開いている。 決して流行っている店ではない。 来る客も数十年来通う一部の常連と、近所で働く服の売り子くらいで、余り目新しい顔は無い。 簡素なガラス戸を開くと、店内は少し暗めで、中はカウンターと2台のテーブルと1脚のソファー。 店員はカウンターで酒を作ったり、常連と話をするマスターと、御用聞きだけ。 店内の音楽は比較的明るく、オールディーズが流れている。 常連客が言う。 昔はこの音楽を聞いて踊ったものだよ。 乾いた店内に響きわたる、エレキギターの歪んだ音。 ブルースコード進行がまるで呪文のようで、何となく自分の血流が早くなったような気がする。 音の先に目をやると、流線型を帯びた一際大きな木製の筐体に、いくつかのボタンが並ぶジュークボックスが、店のライトに照らされている。 「1930年製だよ」 マスターが言う。 ジュークボックスからはいつの間にか「ジョニー・B・グッド」が流れていた。 と、まあ、ジュークボックスと言えばこんな感じのイメージだろうか。 最近ではとんと見なくなったが、たまにアメリカンな店内で見かけたりする。 昔はボーリング場なんかにあって、コインを入れて自分の好きな音楽を選ぶと、場内に流れ、同時に誰もやっていないレーンのテレビ画面に、かけた音楽のPVが流れたりした。 僕は音楽が好きだったので、ボーリングに行くと毎回なけなしのおこずかいで音楽をかけていた。 当時何の曲をかけたのかは忘れてしまったが。 思えば最近は音楽に対してお金を払うという感覚は薄れている気がする。 ネット上ではタダで音楽がダウンロードできるし、レンタルCDも最近では100円以下なんてところもよく見かけるのでCDさえも買う必要が無かったりする。 そもそもカラオケ文化によって、一般の人でも歌が上手い人がいるので、歌手も特別な存在ではなくなってしまった。 僕たちの世代は、丁度学生時代にカラオケが出始め、それこそボーリング場の隅とかにボックス置いてあって、3人も入れば汲々なのだがなんとか入って、曲数の少ない音楽をコインを投入して歌ったりした。 その後、近所の同級生のお父さんとかが、自営の雑貨屋さんとから鞍変えして個人でカラオケボックスを始めたり、居酒屋なんかでもカラオケが置かれて、一曲100円で熱唱したりしたものである。 今は曲に対して金を払うという所も見かけなくなった。 カラオケやネットが音楽を衰退させたとは言わない。 しかし、音楽にもっとお金を支払っていた時代、音楽はより多様化していたと思うし、僕たちにとって音楽は大切なものでもあった。 少なくとも目的地までの退屈しのぎや、ヘッドフォンで耳を塞いで、人と話をしないようにするためのアイテムとかではなかった。 若い女の子と話をするために必死で覚えるようなものでもなかった。(それは当時もあったか・・) 街に安価な音楽があふれた結果、逆に沢山の音楽を封じ込め、音楽の扱いが雑になっているような気がしてならない。 ジュークボックスはそんな時代の遺物のように、今は店のレイアウトの一つでしか見かけることはない。 お金を投入し、自分の好きな音楽を空間に満たす数分間に金を使うということは、今ではあまり意味の無いことなのかもしれない。 しかし、あの頃の僕にとっては自分の好きな音楽で空間を満たすことは最高の贅沢で、それが僕らにとってのファッションでもあった。 コインを音楽に替えて、その空間を満たす行為は、自分のセンスを見せることにもなるので、なかなかにオシャレな行為だと思うのだが、如何か?
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