昼顔

監督 西谷弘
出演 上戸彩 斎藤工
制作 2017年 日本

ま、ちと覚悟はしておけ

(2018年08月07日更新)

  • 今回は不倫についてです。 結構知られた話だが、江戸時代不倫した奥様とその不倫相手は死罪だったそうだ。 えらい罪が重いなあと思われたのは、不倫願望があるか不倫経験のある方かもしれないが、そんな重い罰を受けるのであればさぞかし江戸時代は健全な方々ばかりだったのかしらんと思うのだが、まったくそういうことでもなかったようだ。 そもそも落語なんかで不倫話っていうのはバレ噺の中にたくさんではないにしろあるわけで、しかもそのほとんどの題材で女性が男性を誘惑しているものが多い。 「茶漬間男」では夫が茶漬けを食べている間に友人の男と不貞をするし、「紙入れ」では女房がまあまあ堂々と浮気をしたりしている。 落語の中とは言え、なかなか自由奔放な御仁もいるものだと感心をしたりもするのだが、そんな名人の噺を聞いていると、さぞかし江戸時代は死刑が多かったのだろうと憂慮したりもするのだが、実際の数は不勉強で知らないのだが、現代社会の不倫経験者が2割くらいだそうなので、さすがにそこまで多くなかったのではないかとは思う。 そもそも2割も不倫して死罪にしていたら、江戸時代の訴訟の数もとんでもない数だし、江戸時代の人口も減少していたに違いない。 落語からひも解いて考えてみると、落語では大抵不倫される亭主は馬鹿で、不倫する女性は性に積極的である。 不倫は女性上位の雰囲気さえ感じる。 多分これは正しくて、1721年の資料では江戸の町人男女比率が5:3(32万人:18万人)と圧倒的に女性が少なかったようで、「余る男性選べる女性」と言う構図が少なからずあったのだとは思われる。 つまり男性に奥様がいることは一つのステータスでもあったということなのかもしれない。 要は嫁に来ていただけるだけで男やもめはありがたいわけで、大事な大事な奥様が少しくらい余った男と不倫して死刑なんぞになってしまったら、寝覚めも悪いし、何より自分がまたやもめに逆戻りとなってしまう。 多少のことは目をつぶるか、となんやらかんやらで落語のような、性におおらかな奥様と頼りない馬鹿旦那が出来上がってしまったのかもしれない。 ただ、こんなことを書くとまるで江戸時代の人たちが皆ふしだらなのかと思われそうだが、たぶん現代人よりは性には開放的かもしれないが、貞淑な女性は今より俄然多かったとは思う。 根拠としては、昔習ったと思うが、元禄時代に書かれた曽根崎心中など心中物が当時流行し、果たされぬ恋の行方は、心中というもので成就させようという事件が多発したそうで、燃え上がる恋の炎を消すことができない不倫カップルたちは、命がけの恋に夢中になったようだ。 そもそも不倫が通念となっていたら、心中が流行するわけもないので、それだけ内に思いを秘めていた人が多くいたことは何となく想像できる。 この世の中には性別上は男女しかいないわけなので、「結婚」という契約に「人を愛する」という本能が必ずしも勝つわけではないということを考えれば、不倫をしてしまうのはしょうがないのかもしれないと思うのが僕も含めた現代人の考えなのかもしれない。 ということで、今回は上戸彩さんがかなり熱のある演技をされていた昼顔です。 人間のエゴイズムを問いただした内容で、愛という美しい言葉でモラルや社会に対峙する内容と言えば、何となく映画評論っぽいが、映画の内容もこの薄っぺらい言葉の通りであると感じた。 わかりやすいまでの純愛は、障壁があるからこそ燃え上がり、且つその美男美女ぶりに違和感を全く感じずに、その美しさに愛というものを見直させられるが、しかし自分が歩んだ道を振り返るときに、この物語は欺瞞であると感じる。 それは愛情というものはわからないものではなく、理由があると考えるからである。 中高生の恋と違い愛には多分実がある。 それは相手のぬくもりであったり、やさしさであったりするのかもしれないが、同時に性的な感動や相手を征服したい、独善的なものが存在するはずだと思うからである。 そうでなければ人は不倫などという面倒なことはしないし、わざわざ憎しみもない配偶者を置いてまで不倫をしないと思うのである。 もっとゲスイ表現をすれば不倫は下半身の事情と、頭の中で構築された妄想の結果起きるのだということである。 僕は他の人が好きになってしまうことがあることはわかるし、下半身の事情で浮気をしたくなる気持ちはわかる。 しかしそれが性欲と妄想から来るということを理解している。 だから僕は浮気をしない。 多分しないと思う。 しないんじゃないかな。 ま、ちと覚悟はしておけ。
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